2018.12.27(木)選手

【ダイヤモンドアスリート】第5期(2018-2019)第1回リーダーシッププログラムVol.1(第1部)




「ダイヤモンドアスリート」制度は、2020年東京オリンピックと、その後の国際大会での活躍が大いに期待できる次世代の競技者を強化育成することを目指して、2014-2015年から実施されています。11月28日からは、5期目がスタート。日本陸連では、この日、継続競技者8名のほか、新たに3名の競技者を加えた計11名を「第5期(2018-2019)ダイヤモンドアスリート」とする認定式を行ったのちに、第1回リーダーシッププログラムを行いました。

リーダーシッププログラムは、ダイヤモンドアスリートに提供されるプログラムのなかの、「測定・研修プログラム」の1つとして位置づけられている研修( http://www.jaaf.or.jp/diamond/program/ )で、“競技力向上だけではなく、豊かな人間性を持つ国際人育成のための個を重視した育成プログラムの中で、リーダーシップ教育と位置づけて行う。国際的なリーダーシップを発揮できるアスリートの育成を目指す”ことを目的として実施されてきました。東京マラソン財団スポーツレガシー事業として運営されており、今期も、同事業運営委員の為末大さん(男子400mH日本記録保持者、2001年・2005年世界選手権銅メダリスト)が監修する全4回の内容が予定されています。

第1回は2部構成で実施。メディア公開のもとに行われた第1部は、国際フェンシング連盟理事、日本フェンシング協会会長の太田雄貴さんがスペシャルゲストとして来場し、為末さんが聞き手を務めてのトークセッションが展開されました。また第2部では、ダイヤモンドアスリートのプログラムを担当する朝原宣治プログラムマネジャーと為末さんによる導入対談が行われ、最後に、受講生たちによる「振り返りワーク」を行いました。

プログラムには、学業の都合で欠席した中村健太郎選手(清風南海高)を除く第5期ダイヤモンドアスリート10名(髙松智美ムセンビ選手:名城大、長麻尋選手:国士舘大、宮本大輔選手:東洋大、塚本ジャスティン惇平選手:城西大城西高、井本佳伸選手:東海大、クレイ・アーロン竜波選手:相洋高、藤井菜々子選手:エディオン、海鋒泰輝選手:西武台千葉高、出口晴翔選手:東福岡高、小林歩未選手:市立船橋高)が出席。さらに、第4期で修了となった池川博史選手(筑波大)、橋岡優輝選手(日本大)、江島雅紀選手(日本大)のほか、歴代修了生の北川貴理選手(順天堂大)、平松祐司選手(筑波大)、山下潤選手(筑波大)、犬塚渉選手(順天堂大)、北口榛花選手(日本大)も参加しました。

 

【第1部】

トークセッション:太田雄貴×為末 大
太田雄貴さんは、1985年生まれ。小学生のころからフェンシングに取り組み、オリンピックには、フェンシングのフルーレで、2004年アテネ大会から4大会連続で出場しています。2008年北京大会で日本史上初の銀メダルを獲得し、2012年では団体で銀。さらに2015年には世界選手権で史上初の金メダルに輝くなど、トップアスリートとして活躍してきました。2016年リオデジャネイロオリンピックを最後に、現役を退いてからは、選手時代から務めていた国際フェンシング連盟のアスリート委員長に加えて理事に選出。また、2017年には日本フェンシング協会の理事となり、その後、31歳の若さで会長に就任。以来、従来にないさまざまなアプローチで、日本フェンシング界の普及と発展に尽力しています。

トークセッションでは、太田さんとのつき合いが10年以上となる為末さんが聞き手となり、フェンシングを始めたきっかけ、競技を続けてきたなかでの考え方の変化、協会会長としての理念や取り組みなどに関する話を聞き、最後に質疑応答が行われました。

以下、トークセッションにおいて太田さんが話した内容の要旨をご紹介します。

 

◎フェンシングとの出あい、取り組み方の変化

フェンシングを始めたのは小学校3年生からで、父親「スーパーファミコンを買ってやるから」と言われて始めたのがきっかけ。父の「継続は力なり」という考えのもと、毎日取り組んだ結果、全国一になり、小学生の時点で「僕はフェンシングに向いているんだ」と思うようになった。そこから中学・高校時代は、同年代に敵なしの状態となった。

初めて海外に行ったのは中学3年のとき。英語もできず、試合会場に行っても、自分が次にどのピスト(競技を行う場所)で試合をするのかコールされるのを、ずっと聞き耳を立てていなければならず、試合を頑張る以上に神経をすり減らしていくなかで臨んだ。結果は惨敗。しかし、そこで長身の同年代の選手たちを見たことで、当時、160cmくらいしかなかった自分は「この身長30cm差をどこでカバーすればいいのか」と考えるようになったし、主戦場がヨーロッパであるフェンシングの場合はアジア人というだけで不利なので、そのために「どうやったらフェアに(審判を)とってもらえるだろうか」と、「どうやったら」とか「なぜ」とかを突き詰めるクセができた。それによって、日本で練習していても、自分の目線やポジションを海外に置けるようになったことがよかったと思う。

しかし、18歳のときに初めて出た2004年のアテネ五輪では、決勝戦の試合を見て、自分のやっている種目ではないと思うくらいの速さ、正確さ、かっこよさに、「ああ、僕ちょっともう、メダルは無理だな」と心が折れた。ちょうど、そのころは大学生になったばかりで、それまでとは違う価値観が出てくる時期でもあった。いろいろな誘惑も増えたこともあり、大学1~2年が一番伸び悩んだ。

そこから変化できたのは、「自分のためにやろう」と思うようになったこと。それまでは「親に褒めてほしい」「コーチが喜ぶ」と、自分が勝つことによって得られる副産物のほうに目が向いていたが、大学3年生のときに、小学校3年のときから休まず続けてきた練習を4300日目に休んだあと、「自分のためにやろう」と取り組むようになった。そうすると、勝つためには休息も必要だし、栄養も必要。必要なことを自己責任と思うようになり、ある種、逃げ道がなくなった。「自分がやりたいことで、自分が勝負しているんだから、勝っても負けても完全に自分のせい」と考えるようになってから、“世界が一気に近づいた”ように思う。

 

◎目的でなく、手段としてのメダル

1回目のメダルを獲得した(2008年北京五輪の)ときは、シンプルに「勝ってテレビに出たい」と考えていた。といって、実際に出てみたら、そこに何があったわけでもなかったわけだが…。メダルを取ったとき、最初にテレビ局のプロデューサーに言われて印象的だったのが、「今だったら、誰でも会ってくれる」という言葉。「今だったら」というのがすごく的を射ているわけだが、当時の自分はもっと刺々しかったので、「誰に会いたい?」と聞かれたとき、「いや、別に興味ないんで」みたいな感じで対応していた。今、当時に戻れるんだったら、自分をぶっとばしてやりたいと思う。その後、25~26歳になったときには、「こんな人に会いたい、あんな人に会いたい」と思っても、自分のバリューが落ちて会うことができなくなっている。だから、「こうなったら、次のメダルを取るしかない」と考えるようになった。

たぶん(ダイヤモンドアスリート)のみんなは、まだオリンピックに出たことがないのでイメージがわかないと思うが、オリンピックって、めちゃくちゃ冷酷。オリンピックが終わって帰国した瞬間に、“メダルあり、メダルなし”ではっきりと線を引かれてしまい、メダルがないと全く相手にしてもらえない。フェンシングの場合は、僕が大学のころまでは全然認知されていなかったので、世の中の人に知ってもらうためには、絶対にメダルを取るしかないと思っていた。そうなってくると、メダルは目的じゃなく、もはや手段。その「手段としてのメダル」を、どう取りにいくかということを懸命に考えていたので、実際に、2012年ロンドン五輪で銀メダルを取ったときには、何を言うかも決めていたし、「こうしていく」というものも持っていた。みんなはメダルを取ってから「何しよう、どうしよう」となるところを、僕は走りながらメダルを取った感じだったので、その後の行動もスムーズだった。

 

◎フェンシングの競技人口を増やすために、どうするか

自分は、最初、オリンピックでメダルを取ったら、競技人口が一気に増えるはずと思っていたのだが、実際に取ってみても、意外と増えないことに気がついた。そういうこともあって、最初は、「自分が出たい」とか「メダルを取ってテレビに出たい」みたいなものから、だんだん「それよりも組織として、もうちょっとうまく回せるような方法を考えたい」と思うようになった。また、当時はロンドン五輪が終わったら引退しようと思っていたので、2回目のメダルを獲得したあとは、いろいろな経営者に会いに行こうと考えていて、そして実際にメダルを取った直後だったので、どの方も喜んで会ってくださった。今、そのときにできた仲間や面々に、すごく支えてもらっている。そういう人たちを紹介してくれたのが為末さんだったりする。

そうした機会を「必要」と感じていられたかどうかが、僕にとっては本当に分岐点だったと思う。自分の知名度とかバリューが落ちてから誰かを紹介してもらおうとしても、それはなかなか難しい。メダルを取ったあとの1カ月間くらいは、スーパーマリオでいう“スター”状態。そういう状態のときに、どれだけ自分の可能性を前進させていけるか、というのはすごく重要だと思う。

陸上競技はメジャースポーツだが、だからといって、全日本(日本選手権)の期間中にずっと会場を満杯にできるかといったら、そうではないと思う。しかし、AKBがライブをしたら、ずっと満杯。ということは、ファンに対して、要は彼女たちほど価値を提供しきれていない部分があるといえる。テレビでは、ニュースでも扱ってもらえるし、知名度も認知度もあるけれど、いわゆる直接的な価値はどうなのか。自分の場合はフェンシングを通して、どれだけの人を集客できるんだろうと考えたときに、「フェンシングだけで勝負するのは難しいだろうな」と思った。だけど、やっぱりフェンシングのことが好きだから、フェンシングでも集客していけるようにしていきたいなと、ずっと企画を貯めていた。だから、例えば、好きなアーティストのライブとかに行って、ただ楽しむのではなくて、「なんで人が彼らに熱狂するんだろう」「なんで、こんなに彼らに魅了されるんだろう」と考えていた。目の前で起きている事象を、事象だけとして捉えるのではなくて、そのインサイドまで入っていけることが大切だと思う。

 


◎競技の枠を超え、いろいろな人とつながる

陸上の場合、競技人口も多いのだろうが、それでも外を見たら、もっといろいろな人がいる。だから、そこに目を向ければ、自分の知らないことを知る喜びは、もっと増えるはず。僕は、スポーツの醍醐味は「昨日できなかったことが今日できたときや、自分の仮説がうまくはまって試合でパフォーマンスが出たときに、勝ち負けを超えた喜びがある」ことにあると思っている。それは仕事にも日常の生き方にも共通していて、つまり自分たちだけの話ではないということ。だから、パフォーマンスが違うだけで、実は相当のいろいろな競技と連携できるのではないか。例えば、フェンシングの場合は、バドミントンとけっこう動きが似ているので、バドミントンの技術をフェンシングに入れてみた。また、トレーニングのところでは、ウエイトリフティングの選手にウエイトトレーニングの方法を教えてもらったこともある。そう思いもあって、自分は22~26歳の時期に、アスリートの横のつながりを強くして、自分にプラスになる人たちに会ったり、いろいろなことを教えてもらったりするようにした。引退を考えてからは、アスリートではなくて、ほかの分野の方々との出会いを求めていくようになった。

人と出会いを求めていくことは、一流選手であれば、きっと競技にも将来にもプラスに作用することができるのだろうけれど、僕くらい並みだと、競技にとってはプラスマイナスゼロというところ。いいところもあるし、悪いところもある。僕のコーチはウクライナの人で、どちらかというと古典的なタイプ。彼には、やめろと言われた。「才能とはガラス細工みたいなもの。いろいろな人が触れば、指紋がいっぱいつく。また磨かなければいけなくなる。練習に集中してくれ」と。確かにそれは一理あることで、自分の心を整理させるような時間をつくるべき試合前の期間に出歩いていたことは反省すべき点。しかし、競技が終わったあとは、もう確実にプラスしかない。どんなビジネスも、やりたいことも、1人では何もできない。人間なんていうのは。助けてくれる仲間、助けてくれる先輩後輩がいることが、人生にとっての財産なので、僕はプラスだと思っている。

 

◎国際連盟の役職に就く、五輪の招致に参加する

国際フェンシング連盟は、もともとアスリート委員長を務めていたのだが、2015年に初めて一般選挙に出て、そちらにも当選して、今は、理事を務めている(注:12月7日には副会長に就任)。

理事をやるきっかけになったのが、「国際決定の一番重要な場所に、日本人がいなければ」という考えから。よく、他競技の国際連盟などで急なルール改正があり、「また、日本人に不利なようにルールが改正されました」と報道されることがあるが、それは、決定する国際機関のなかに日本人がいないから。例えば、オリンピックは、2024年から参加総数が決まってしまったので、1万500人しか出場できなくなっている。つまり、新たな競技が入ってきたら、何かの競技をやめる、もしくは種目をなくさなければならないわけで、それはもしかしたら、自分が当たり前のようにやってきた種目が、オリンピック種目からなくなるかもしれないということでもある。

それがフェンシングから出るのをなんとか避けたいなと思ったときに、じゃあ、意思決定の場となる国際連盟に行くしかないと思った。

また、2013年9月に開催が決まった2020東京オリンピック・パラリンピックの招致活動で、最終のプレゼンテーションをやることになったときは、その8カ月前に、「太田選手、アンバサダーやってくれませんか」と声をかけられたことがきっかけだった。ほかのアンバサダーは誰もが知っている名だたる人たちばかり。日本における知名度で勝負しても勝てるわけがないと思った自分は、「本当に票につながるような人に自分にならなくちゃいけない」と考えた。その後、IOCのメンバーが調査のために来日するのに際して、そのリハーサルとして英語のスピーチを行う機会があり、3日前に3分くらいの内容の原稿を手渡されたのだが、それを3日間かけて丸暗記し、思い切り堂々と、カタカナ英語でスピーチをした。「あいつ、張り切っているな」と招致委員会の人には笑われたが、発音がネイティブでなかろうと、自分が周りからどう思われるかよりも、「絶対に東京オリンピック・パラリンピックは開催するんだ」という強い思いで臨んでいたことを、招致委員会の戦略コンサルタントを務めていたニック・バーリーさんが認めてくれた。そこから、チャンスが広がっていったという経緯がある。

そうやって、その場その場でポイントを見つけて、できることは何かを考えてやってきた。目の前に見えているもので、自分に何ができるんだろうかと考えて、そのために努力してみる。周りから笑われても愚直にやってみるという感じ。僕は、スティーブ・ジョブスが言っていた「コネクティング・ザ・ドッツ」という考え方が好き。まさに「目の前にあることを頑張っていって、振り返ると点と点が線につながる」ようでいたいと思っている。恥もかくなら若いうちに。歳をとると恥をかきにくくなるので、若いうちに恥をかいておくほうがいいと思う。

 

◎協会の会長として

日本フェンシング協会の会長として、今、僕は、選手たちには、自分の競技と接点が持ちやすいところに課題を2つ出している。1つはマーケティングの観点。もう1つはファンドレイズの観点。

まず、マーケティングの観点については、選手たちには、「がらがらの会場で試合した? それとも満杯のなかでやりたい?」という選択肢を出す。「今まで通りでいいというのなら、フェンシングには一所懸命打ち込めるかもしれない。そのかわり、遠征費にも自己負担金が出てくすり、お客さんもいない。その状態を選ぶのか、プロモーションにも協力し、ファンサービスもする。そうすれば、お客さんもやってくるし、みんなの遠征費もいつしか自己負担じゃなくなる日が来るかもしれない。そのどちらがいいか選んでくれ」と。そこで、「僕がこのままでいいです」という選手に対しては強要をせず、「じゃあ、遠征費に関しては今まで通りね」とか「協会としてはあなたを売り込んでいかないけれど、そこは仕方ないね」という感じで対応している。

もう1つは、これは日本陸連とかでは考えられないことではあると思うが、競技用のユニフォームの(スポンサー)ワッペンの1つの枠を、選手に開放している。「この1つを使って、自分で営業してきなさい。これを1万円で売ろうが、100万円で売ろうが、1億で売ろうが、あなたの自由です」と。競合するところはNGとか、反社会的な組織はダメとかの制限はあるけれど、あとはOK。「自分で企画書のつくり方を調べて、自分で書いてみて、自分で営業に行って、自分でアポイントをとって、交渉してきなさい。手に入ったお金は、協会は1円も抜かないから」と。そうすると、選手同士で、企画書のつくり方や、値段をどうするかとかを考えるようになった。この子たちが、将来、協会に入ったときには、それまで自分だった商材が、協会全体に変わるだけなので、きっと資金集め上手になる。自分の値段を、お金に換算して考える思考がついてくる

日本では、「スポーツでお金をとるなんて…」という人もいるけれど、あんなのは世界では全く通用しないこと。スポーツ選手ほど、お金に対して知識があったほうがいい。クリスチャン・ロナウド選手なども普通に投資をしているし、ショーン・ホワイト選手だってゴープロ社の株を、当時はいっぱい持っていた。そういうふうにして、自分の競技以外でもしっかり稼ぐことを普通にやるのが世界のスタンダード。うちは、直接的にそれができるような仕組みにした。

また、協会を運営していくにあたっては、まず、理念を決めて、ブランディングしていくことから始めた。協会理念のスローガンに当たるところは、「突け、心を。」というもの。感動体験を提供するというところに決め、「フェンシングの先を、感動の先を生む」をビジョンに、試合の勝ち負けだけでなく、自分の普段の練習に取り組む姿勢だったり自分の発言だったり、競技のみならず生活に向き合う姿勢そのものまでが人を感動させられるような組織でありたいね、というのを決めていった。

もう1つは、価値。僕たちは、騎士道というものを持っているので、ここを中枢にフェンシングに必要な5つの基本精神というのを決めた。この精神性と感動体験を軸に、これからブランディングをさらにブラッシュアップさせていくという段階にある。最近、ビズリーチを利用して、マーケティングの担当者を採用したばかりなので、今後、さらに推し進めていくことになる。

 

◎スポーツ界の不祥事に思う

なぜ、これが起きるかというと、すごくシンプルなことで、向いていない人を、向いていないポジションにつけているから。つまり、適材適所でないということ。

“協会あるある”の話をすると、いい選手がいいコーチになって、いいコーチがいい監督になって、いい監督がいい理事になって、それで協会の役職につくという、雇用関係がないのに終身雇用のようなキャリアアップがある。確かに指導にはその競技の知識が必要だけど、協会の理事や強化本部長以上がやる仕事は、その競技の知識がなくてもできること。なのに、今までのスポーツ界は、その競技の関係者だけですべてを完結させようとしていた背景がある。フェンシングの場合は、登録者はたかだか6500人。それで全部やろうとするのは不可能。そういう意味でも、不祥事が起きた理由は、人材の流動性がなかったから起きたという1点に尽きると思う。

また、選手とコーチとの問題については、これは選択肢の少なさと、さっきも述べたような外部との接点をないことに原因があると思う。外部との接点があれば、聞いたり比較したりできるから、その中で起きた出来事が普通か普通じゃないかも判断できる。あとは、「このコーチ、いやだな」となったときに、これがダメだったときのBプランがちゃんとあることも大切。そして、コーチと適度な緊張関係を持つことが一番の解決策かなと思う。

 

◎アスリートの先輩としてのメッセージ

みんなが10代なので、僕も10代のときの話をしたい。僕は大学時代も、また、高校も中学も、今でも会うような友達がいない。おそらく、みんなも夜の時間とか、夕方以降は、部活にすべてを捧げていて、いわゆる一般の学生がするような遊びに行ったり、サークルに行ったりというような楽しみ方を犠牲にしているのではないかと思う。しかし、僕はメダルを取ったときに、それがすべて報われたと思っている。

大学に入ると、いろいろな楽しい誘惑もあると思う。そういうのに行くのはダメと言っているのではないが、それが「自分が人生において何を成し遂げたいのか、自分の人生でどういう自分を描きたいのか」ということにそぐわないと思う場合は、極力やらないほうがいい。今日話したように、いろいろな人に会ったりするのは、その目標に対して「ポジティブに、プラスに働く」けれど、一方で、そうでないものもこれからは出てくると思う。もし、そういう選択肢に遭遇したときには、「自分が人生で何をやりたいのか、陸上を通して何をやりたいのか」ということを思い出してほしい。人生は1回しかなく、競技人生はできてあと10年、マックスでも15年くらいでだいたい引退を迎えることになる。その短い時間を大切にして、皆さんの将来を大きくしていってもらいたい。

「2018-2019ダイヤモンドアスリート 第1回リーダーシッププログラムVol.2(第2部)」に続く…

 
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