2018.12.28(金)選手

【ダイヤモンドアスリート】第5期(2018-2019)第1回リーダーシッププログラムVol.2(第2部)





「2018-2019ダイヤモンドアスリート 第1回リーダーシッププログラムVol.1(第1部)」から



【第2部】

導入対談:朝原宣治×為末大

第2部では、導入という位置づけで、日本陸連でダイヤモンドアスリートを担当する朝原宣治プログラムマネジャーと、リーダーシッププログラムの監修者である為末大さんが対談を行いました。2人の出会いは古く、現役時代には日本代表チームの仲間としてオリンピックや世界選手権をはじめとするさまざまな大会に挑んだり、国際陸連が主催するグランプリシリーズ(現在のダイヤモンドリーグの前身となる国際競技会)で戦うべく、ともに各国を巡りながら転戦したりした間柄。互いをよく知るだけに、非常に興味深いエピソードが、次から次へと飛び出してきました。

ここでは、為末さんが進行役を務め、「他競技からのトランスファー」「単身で海外(ドイツ)に拠点を置いての長期間にわたるトレーニング」「ジャンパーからスプリンターへの転身」「36歳までの現役生活」等々、現役当時、従来になかった軌跡を歩み続けた朝原プログラムマネジャーから、その経過や取り組み、陸上競技や物事に対するとらえ方、考え方などを引き出していきました。

以下、その模様を、抜粋してご紹介します。



 

◎ハンドボールから陸上競技へ

為末:まず、ちょっと朝原さんの経歴を聞いてみましょう。中学のときまでハンドボール部でしたっけ?

朝原:ハンドボーラ―ですね。かなり厳しい感じで、めちゃくちゃ練習していました。

為末:それで高校に入ってから陸上を始めた?

朝原:だから、最初はやり投をやっていたんです。でも、ちょっと違うなということで、走幅跳をやることになりました。

為末:足は明らかに速かったでしょ?

朝原:ハンドボーラ―のなかで速かったんだけどね。でも、初めて陸上の試合に出たのは200mだったんだけど、組で6番くらいかな。そんなに遅いんだって、自分でもびっくりしました。

為末:でも、高3のときにはインターハイチャンピオン。めきめき伸びたという感じ?

朝原:いや、中学校のときに、めちゃくちゃ練習していたので。それに、ハンドボールって、基本的にフットワークの練習をするし、ジャンプシュートするし。だから、けっこう走幅跳と似ていて、あんまり違和感なかったんですよ。

為末:(ダイヤモンドアスリートに向かって)もともとは、走幅跳の選手だったんですよ。それで、同志社大学に入って、3年のときに日本記録。100m10秒19ですかね。1991年の東四国国体で。それで代表入りしたみたいな感じだったのかな? 僕も同じ国体に出ていて、けっこう衝撃的だったことを覚えています。10秒19で、それも、すかした関西のスプリンター(笑)が記録を出したというので。

朝原:(笑)。そうだね、当時、誰も期待していなかったからね。

為末:それで一気に、代表チームとかに、ぼんと入った?

朝原:そのころは、走幅跳の選手だったので、スピードを生かして、どちらかというと走幅跳で世界と勝負しようと思っていました。日本記録を持っていると、話を聞いてくれるんじゃないかということで、大学4年生のときに、お世話になっていた先生と就職活動をして、海外に行きたいという思いがあったので、いろいろな企業にお願いしに行って、最終的に大阪ガスに入りました。

 

◎単身で6年間、ドイツでトレーニング

為末:そのあと、すぐにドイツへ行ったんですよね、6年間。

朝原:そうです。僕らのころは、選択肢としてドイツかアメリカくらいしかなかったんですね。日本陸連がカール・ルイスを指導したトム・テレツという有名なコーチとつながりがあったらしく、どうせ行くならアメリカに行けと言われたんだけど、サンタモニカトラッククラブなんて、そんな強いチームにいきなり行くのはちょっと怖かったので、ドイツでじっくりと育ててもらおうかなと、ドイツにしました。

為末:(ダイヤモンドアスリートに向かって)サンタモニカトラッククラブは、今でいう、ジャマイカのレーサーズトラッククラブみたいなところです。9秒台が5~6人いるみたいな。ところで、あのころ海外に行った選手で、自己ベストを更新した選手というのを調べたんですけど、ほとんどいなかったんですよ。実は、その傾向は今もあまり変わっていないんじゃないかと僕は思っていて、それが、みんなが海外に行くときの1つの躊躇につながっているのではないかと。少なくとも、僕はそれが躊躇した理由の1つだったので。なんで朝原さんは、数少ないアジャストした選手になったと思いますか?

朝原:当時、海外に出た選手としては、杉本龍勇さん(1992年バルセロナオリンピック男子4×100mR6位)が同じようにドイツに行っていました。彼は、頭がよかったので、ドイツの大学で勉強しながら練習していました。そういうのを見習ってという感じでしょうか。ただ、僕は(陸上で)結果を出す第1号になってやろうと、覚悟を持って行っていました。今でこそインターネットでつながっていて、日本の情報もすぐに入ってくるけれど、空港で売っている800~900円する新聞でしか日本の情報を得られないという時代で、一度行ったら、そこで頑張るしかない感じ状況だったので、けっこうきつかったけれど、もともと海外に行きたいというのがあったし、向こうはドイツ語なので、まずはコミュニケーションがとれるようになろうと語学学校にちゃんと通って、コーチとダイレクトにやりとりができるようにしましたね。

為末:情報が入らないというのは、もうみんなにはわからないかもしれないですね。日本語に出あうのは3カ月に1回とかいう感じ。そもそも海外に行くこと自体の感覚が違っていた。そんな状態のなかで6年間、まあ、ときどきは帰ってくることはあったとしても、基本は行きっぱなしなわけで…。

朝原:最初の3年くらいはそうでしたね。で、僕がよかったと思うのは、そのころには、自分のスタイルを、ちゃんとある程度持っていたこと。向こうに行ったとき、ドイツ人のコーチに会ってみて、ダメだったら次を探しましょうということで話を受けていたんです。

為末:それ、すごく大事なプロット。「ダメだったらダメ」は何を持ってダメだった?

朝原:まずは1回、僕の練習と動きを見てもらいましょうというのをやったんです。練習をして、気になったところを注意してもらうということで。で、僕はずる賢くて、そのときに、わざと変な動きをしたんです。その動きについて「なんて言うかな、このコーチは」という思いで。そうしたら、的確に、「そこはずれているから、ちゃんとこうしたほうがいいよ」って言ってくれた。それで、「あ、これなら、大丈夫だな」と…(笑)。

為末:試したわけですね(笑)。

朝原:そう、海外に行っても、主導権を全部握られて、全部そっちが素晴らしくて、言いなりにならなきゃいけないんだったら、あんまり自分では得るものがないと思っていました。自分の足りない何かをコーチから、海外の人からもらいにいくというような、そういう感覚で行かないと。失敗している人はすべて、そのチームのやり方を全部やってみたけれど、逆にスタートダッシュが悪くなって帰ってきたとか、そういう感じだったと思います。

為末:僕も失敗しているので、よくわかります(笑)。

朝原:だから、ある程度、自分の感覚を残しつつ、ひと通りやってみて、で、よかったら取り入れるし、ダメだったらコーチと話して、ちゃんと聞いたほうがいいと。

為末:コーチと対峙することになるじゃないですか。その葛藤はなかったんですか?

朝原:あるある。あるけれど、ね。でも、そう思うのはこっちの思い上がりかもしれないので、だから、コーチが言うことはひと通り全部やってみた。それで納得するやつはやるし、納得しなくても自分なりに工夫して、「意味ないかもね」と思いながらも(笑)、プラスに働くようにやっていました。

為末:コーチとの距離が適度にあって、その関係性が、上下でなくて対等であるというのが大きいですよね。

朝原:ドイツは本当にそうでした。当時、中学生の子が僕らのチームに入ってきたんだけど、「なんで入ってきたの?」と聞いたら、「いや、前のコーチと考え方が合わないので、ラップコーチに教えてもらいに来ました」と言うんです、中学生が。すごいなあと思いました。だから、さっき(のセッションで)太田会長が言っていたけれど、選択肢がある…つまり、コーチを自分で選べることと、それに対して誰も「それ、おかしいでしょ。あのコーチにお世話になっていたから、そんなこと言っちゃだめでしょ」とならない環境というのは素晴らしいな思いました。



 

◎自分に足りなくて、ドイツにあったもの

為末:それで、ドイツで「自分に足りない何か」は見つかりましたか?

朝原:皆さん、ウエイトトレーニングはもうやっていますか? 僕は、日本では、試合前にウエイトトレーニングはやってはいけないと学んでいたんです。なぜならスピードが遅くなるから。でも、ドイツでは、刺激を入れるため、試合前日にウエイトトレーニングをやってくださいといわれました。もう、初めはいやで、いやで、「前日にウエイトトレーニングなんかしたら、絶対にスピード出ない、跳べないよ」と思っていたんだけど、でも大丈夫だったんですね。なので、自分の陸上スタイルというのは確立していたけれど、そういう固定観念にメスを入れてくれたことに感謝しています。「こうじゃないと活躍できないとか、結果が出ないとかいうのは、意外とないものだな」と。「なんでもあり」ではないけれど、いろいろ試したほうが面白いなと感じました。

為末:朝原さんがドイツに行ってから、100mの日本記録は、10秒14になったのかな?

朝原:10秒14(1996年)になって、10秒08(1997年)です。

為末:100mの日本記録が0.11秒伸びた時代に僕らはいわたけです。ちょうど今、9秒87まで一気に行くのに近いような感じではないかと思うんですが。そのときは、やればどんどん速くなるという感触だった?

朝原:でも、10秒19が出たときは、まぐれ。風がものすごくよかったし、ものすごくそその試合にぴったり(調子が)合って、たまたま出た。周りからもフロックと言われていたし、僕自身もそう思っていました(笑)。そこからしばらくは出なかったけれど、ドイツでは、ものすごい練習も重ねたんですね。それで、自分の力がついた。あとは、速い人たちを見る機会がものすごく増えたことが影響していますね。ヨーロッパの試合では10秒19の持ち記録なんて、いくらでもいたので。そういう速い人たちを見て、持っている意識が変わりました。「これくらいじゃ、全然ダメだ」みたいな感じで…。

為末:僕は、初めて代表に入ったのが、18歳の世界室内のとき。そのとき、もう朝原さんは、ドイツにいたんでよね。大会には、ドイツから、その場所に合流してきて、で、日本チームとして一緒に移動するんだけど、基本はドイツ人のラップコーチと一緒にいて…みたいな。当時の典型的な日本人選手とは全然違う動きをしていたことが、すごく印象に残っています。

 

◎骨折を機に、ジャンパーからスプリンターへ

為末:その後、けっこう重要だったオリンピックの前に、骨を折った…。

朝原:シドニーオリンピックの年ですね、2000年です。

為末:だから、シドニーオリンピックには出ていないんです。そのときは絶望的な気持ちになった?

朝原:そうなんです。今、橋岡くん(優輝、日本大、ダイヤモンドアスリート修了生として出席)が日本記録を狙おうとしているわけですが、僕も、日本記録を狙っていたんですよ。でも、左足を骨折して、しばらく踏み切りの練習をするのが怖くて、怖くて。それで、もう少し短距離に専念しようかなとやっているうちに、どんどん短距離に行ってしまいました。年をとると、両方やるは練習的にも負担かかるということもあって、走幅跳から遠ざかっていったって感じでした。

為末:それって、けっこう大変な話では? 走幅跳でオリンピック狙おうと思っていたのがケガをしたので、じゃあ、100mをやっていこうということ。そのときの心境はどうだったのですか?

朝原:やる種目が1つ減ったのは、ちょっと寂しかったですよね。けっこう僕の場合は、走幅跳で来ていたから、100mで日本記録を出して注目されて、タイムが悪いことがあったとしても、「僕は、走幅跳の選手なんで」と逃げ道がなった(笑)し、あとは練習の相乗効果とか、気持ちの切り替えとか、そういう(プラス)面もあったので。だから、体力とやる気さえあれば、両方ずっとやりたいなというのはあったんですけどね。

為末:シドニー五輪は28歳のときですよね。今のみんなたちが、あと8年くらい自分の競技をやってきて、そこでメインとする種目を変えたような感じです。陸上界では走幅跳をやっていたことは知っているけれど、世間的には、たぶんそのあとの活躍が、朝原さんの功績という感じになっていると思います。

朝原:そうですね。だから、僕が走幅跳の選手だったことを知らない人はけっこういます。

為末:そういう意味では、28歳から36歳までの功績が、朝原さんの競技者としての社会的な評価となっているわけです。皆さんでいうなら、8年か10年かは助走段階で、そこから本番が始まったみたいな、感じ。まあ、助走といっても、それまでに日本記録をばんばん出してはいたわけですが、社会的には、そう見られている…。

朝原:そうだね、遅咲きですよね。だって初のオリンピックが24歳のアトランタですから。

 

◎29歳で10秒02をマーク。武器はテクニックとピーキング

為末:そこから10秒02まで行くわけですけど、その経緯は、どんな感じだったのでしょう?

朝原:なんかね、29歳で10秒02を出したので、体力的にはもう完全に下り坂です。あとはもうテクニックとピーキング。なので、そのころ、よく東海大の髙野進先生のところに練習しに行ったりしていたんだけど、学生には勝てない。体力があるし、回復力がとにかく違うので。だから、そういうのを踏まえて、一撃試合で力を出せるような調整をやっていきました。それを自分なりにちゃんと見つけてやるというのが、すごく大事。皆さんもそうですよ、「数打ちゃ当たる」なんてもんじゃなくて、もう限られた体力と時間なので、そこが大事。陸上なんて、ピーキングが命でしょ? 年取ればとるほど、そういうのがわかってくるので、そこで戦ってきたなというのがありました。

為末:朝原さんって、本当に「暖簾に腕押し」みたいな印象があるんです。練習で負けても、へらへらしているし、「疲れた」ってやめちゃうし。

朝原:へらへらはしてないよ(笑)。

為末:(笑)。「違和感ある」ってやめちゃうし。

朝原:ああ、そこはね(笑)。

為末:でも、改めて分析したら、結局、日本選手権、オリンピック、世界陸上をみていくと、そこは押さえている。選手からしてみたら、練習で力を抜くって、こんな怖いことはないと思うんですよ。それを、当時の感じでいくと、朝原さんはいち早く「練習はほどほどで、本番でピークを合わせて、ばーんと一発出す」というスタイルでやっていった気がするんです。1週間休んだり…。

朝原:(1週間休むことは)しないよ、それは(笑)。というか大ちゃんが知らない僕がいて、ドイツ時代には、めちゃくちゃ練習していて、それで骨折しましたからね。その経緯があったので、歳をとってきて、もうちょっと効率よくしなければということで、しっかり休んで回復をさせるというのをやり始めたわけで、そうなるまではけっこうやっていましたよ。ただ、試合とかは平気で(出場を)やめていたので、僕、神戸新聞に「朝原の違和感」という見出しで記事になったことがあります。「いつも期待されて、みんな応援しに来ているのに、欠場する」と。でも「それはトップアスリートの持つ、繊細な感覚で勇気のあることだ」って、その記者は肯定的な意味合いで書いてくれたんだよね。だから、そういう勇気を持つことと、自分がどういう状況なのかを練習中もわかっていることはすごく大事だと思います。

為末:それに気づいたのはケガが一番の理由? その20代前半ですごい練習をいっぱいしたことは、必要だったと思いますか?

朝原:うーん、それはよくわからないなあ。今、練習量を極力少なくして、効率よく練習しようという流れになっていて、それで結果が出ているからいいのかなとも思うし。僕自身も、今みたいに情報がいろいろあったら、そうしていたかもしれないです。ただ、実際に、めちゃくちゃ量をやった時期はあったので、それが無駄だったかどうかというのは、ちょっとわからない。もしかしたら、もっと楽な方法があったかもしれないけれど。でも、一番いいのは、質のいい練習をたくさんやるのが、間違いなく一番だと思うけれど。

為末:60mを1本走って帰っちゃったりするんですよ。それで週に2回とか、そんな感じの…。

朝原:いやいや、そういうときもあったけれど、ちゃんと数をやるときもありましたよ。そのときに応じて、何が大事かというのを考えてやっていたんです。

 

◎「自分で決める力」は先天的なものか、後から身につけられるのか

為末:もう1つ、朝原さんがけっこう特徴的だったなと思うのが、本当に、独立して動いていた印象があること。特に(競技人生)前半のほうは、いわゆる既存の陸上界に当てはまらない動きをしていたので、指導者の方たちのなかには「なんだ、朝原は」みたいな声もあったじゃないですか。

朝原:え、そうなの?

為末:あったんです。

朝原:へえ、嫌われてたの(笑)?

為末:嫌われていたのかも(笑)。「あいつは、まじめにやらない」とか「練習はサボるし、ああいうやつは大成しない」とかいう感じの声がありつつも、(現役が)終わってみたら、最も長く競技をやり、最も陸上の象徴みたいな引退の仕方をしていた。僕は、当時、そう言っていた人たちにその後会っていないけれど、たぶん評価は180度ひっくり返っているんじゃないかと思います。

朝原:俺が育てた、みたいな(笑)?

為末:(笑)。何がポイントかというと、自分で決めていけるかということなんです。コーチは、最後まで責任をとってくれないじゃないですか。もちろんとってくれるコーチもいるかもしれないけれど、でも、最後の最後、結局自分の競技人生というのは、自分が決めなきゃならなくて、うまく行かなかったら外から慰めておしまいじゃないですか。そういう意味で、朝原さんは、ずっと外からの声に揺らがないでいた印象があるんですよ。それは、もともとの性格から来ているのか、それともそうなっていったのか?

朝原:どうなんだろう。みんなは、どんな感じですか? 

為末:全く考えたことないでしょ? 自分の行く先を誰かが決めるっていうのは。

朝原:誰かが決めるというのは考えたことないけどね。ただ、1人じゃ無理なので、協力者は必要だよね。

為末:でも、自分のやりたいことを協力してくださいって感じですよね。

朝原:まあね。ただ、僕は、ハンドボールから移ってきたので、始めから部外者だと思っていたというのはある。(ほかの選手たちが)中学生のときからつるんでいるところに、自分が入っていくのはすごくいやだったし、群れを成してこうしないといけないというのもなかった。高校時代も普通に試験を受けて進学したし、(陸上部も)全然厳しくない先生だったし、しかも同志社大学でしょ? 大学でもなんの拘束もなかった。そういう世界で来ていたので、別に誰がどうしろというのがなかったことも大きいと思います。

為末:一方で、比較的、(拘束が)“がちがち”のところからも、スター選手って出てくるじゃないですか。どっちがいい悪いじゃなくて、どういう選手が“がちがちスタイル”が向いていて、どういう選手は自由が合うのかな。

朝原:どっちがいいんでしょうね。全部、指導者がメニュー立てて、それにしたがって練習しているっていう人はいますか?

為末:まあ、メニューを全部指導者が決めることと、“がちがち”かどうかとは、またちょっと違う気もしますよね。

朝原:どういうのが“がちがち”?

為末:先生に、「私、こうしたいです」と交渉する権利がないとか、または、「お前はこっちに行っちゃうほうがいいぞ」と誘導されちゃうとか。そういうのが僕にとっては“がちがち”の印象があります。でも、「それが合う」という人もいる。僕らのころだと、「1人でヨーロッパに行く選手がいい選手だ」みたいな流れがあって、みんなヨーロッパに行こうとしたけれど、うまくいった選手は少なくて、一方で、あまりそれに惑わされず、国内でコツコツやった末續(慎吾)がばーんと突き抜けた。僕はどちらかというと、ヨーロッパの自由スタイルがはまったわけだけど、もし、彼と僕が逆だったら、たぶん両方ともダメだったんじゃないかと思っているんです。だから、その時代ごとに成功した選手のやり方がいいとされるけれど、本当はそうじゃなくて、「自分にはどのやり方がいいんだろう」というのを見定めなきゃならないと思っているんだけど、コーチにもその人のやり方があるので、選手側が自分でやり方を選べないこともあると思うんですね。

朝原:うーん。さっき(のセッションの質疑応答で)、海外に行くかどうかの話があったけれど、(太田さんが答えた「迷っている時間にライバルは前に進んでいる。迷わず動け」という意見も)それも選択肢の1つだけど、もしかしたら、行って「全然、無理」というパターンだって考えられる。それは行ってみないとわからないよね。ただ、せっかく(ダイヤモンドアスリートという)こういう仕組みがあるので、いろいろ経験してみてもいいんじゃないかな、と。僕も、「誰が成功しているから、こういうパターンがいい」というのは、本当にないと思う。人それぞれ思考も違えば、性格も違うので。

為末:どうやって「合うもの」を見つけたらいい?

朝原:どうなんでしょうね。僕はもともと海外に行きたいなと小さいころから思っていたので、なんにも思わなかったですけど。大ちゃんは、そんなことないでしょ? だって、初めてヨーロッパ遠征したとき、外に出るのがいやだからと、引きこもり人間になっていた。ホテルで部屋にずっといるみたいな(笑)。今は、こんなだけど(笑)。

為末:(笑)。ゲームボーイしていました、当時流行っていたんだよね(笑)。だから僕は、完全に人生が途中で変わったタイプ。そこには、朝原さんの影響がけっこうあるけれど。なので、僕は「人は変われる」という前提なんです(笑)。

朝原:だから、何をとるのか、ということですよね。経験をとるのかとらないのか。切羽詰まっていて結果が欲しいんだったら、そんな冒険をしている場合じゃないだろうし。

 

◎「合う、合わない」をどう判断するか

為末:では、これはどうでしょう? 「合う、合わない」について考えるとき、「これは自分に合わないのか、それとも自分に我慢が足りないだけで、もうちょっとすれば突き抜けるのかがわからない」ということがあるじゃないですか。それについては、どう思いますか?

朝原:海外での順応性とかじゃなくて、トレーニングの場面でいうと、僕はけっこう新しいトレーニング方法を取り入れてやっていたのです。「ある程度やらないと成果がみられない、でも長すぎると方向転換するのに、またすごく時間がかかる」ということで、少なくとも1カ月…。

為末:1カ月はやるということ? けっこう短くないですか?

朝原:うん。1カ月間はやる。そこで第1次判断をする。で、「あ、これ、もしかしたら行けるかも。結果が出てなくても、もうちょい続けてみよう」となったら最長で3カ月。それ以上行くと「これはもう違うんだな」と諦めるというような、自分のバロメータみたいなのをつくっていました。「これ以上行くと、もう冬期練習が引き返せないから」とかね。実際、失敗して、春先になって「もう、このまま行っちゃおう」みたいこともあったけれど(笑)。それは自分で決めていましたね。

為末:それは、身体の感覚に敏感であれば、わかるところなんですか?

朝原:わかるかわからないかは、結果が出ないとわからないです。みんなだってそうでしょ? 今やっているトレーニングがベストかどうかなんて、結果が出てみないとわからないですよね。それは、いくらトップに行っても、最後まで「これが本当にいいやつなのかな。もっといいものがあったのかな」なんてわからない。だから、もう、想定して、探りながらやるしかないかなと思います。もう勇気だよね。だから末續なんかは、信頼できる指導者と、すごい練習をやりきったというのがある。もう、信じ込んでやらないとできないほどの量と質で、僕らが見ていても怖いくらいだったから。でも、それがもうぴったり合えば、どかんと記録は出る。一方で、「もしかしたら、間違っているかもしれない」という怖さとの両面がありますよね。

 

◎今、振り返って、何が失敗だったか

為末:自分が今から何かをしようとするとき、先に行った人に「何に躓いたか」を聞けるのが一番いいんですよね。何に成功したかのパターンはあまりないけれど、失敗にはいろいろなパターンがある。失敗したこととか聞くと、自分の落とし穴はとりあえず1個潰せるので、効率よく、もうちょっと高いところに行けると思います。ということで、今、振り返って、何が失敗だったと思いますか?

朝原:うーん(思案する)。

為末:朝原さんが10秒02(2001年)を出したときは? レース前日、道に迷って、2人で放浪したんですよ、ローザンヌの街を。あれがなければ、日本人初の9秒台が出ていたんじゃないかと…(笑)。

朝原:そうね、夜中に歩かされて…。あれはやっぱり1つの後悔かな(笑)。あと、今、思い起こすと、出せるときにちゃんと記録を出しておいたらよかったな、と思います。

為末:それ、どの時期?

朝原:10秒14を出したときとか10秒08を出したときは、走幅跳をやっていたこともあったけれど、もうちょっとスタートとかやりようがあったんじゃないかと思うんですよ。今見ても、すごい“ヘボい”スタートをしているから(笑)。当時の情報の少なさとかもあっただろうけど、それでも、もうちょっと何かやりようがあったんじゃないか、という後悔はあります。そのころは、「タイムなんていつかは出るし、条件さえ揃えばいい」って思っていたけれど、でも、出せるときに出して、それがスタンダードになって、そこからさらに上に行けることを考えたら、記録を出しておいたほうがよかったな、と。そのへんをもうちょっとうまくやっていたら、前倒し、前倒しで、もっといい記録が出せたんじゃないかな、そのへんが足りなかったな、と。

為末:行けるときに行っておけ、と。

朝原:そうそう。だって、気づいたときには30(歳)近くになっていて、そのときには体力なんてないでしょ。だからもう、みんなのようにフレッシャーのときに、(記録は)やっぱり出しておくべきかなと思いますね。

 

◎「主体的に動ける人間」になっていくことは可能か

為末:今日の太田さんの話を聞いても、朝原さんの話を聞いても、いずれにしても「主体的に動く人にのみ未来は開かれる」という印象なのですが、主体的になる方法ってあるのでしょうか? そう生まれつくしかないのか、それとも、トレーニングによって、主体的に人生を変えていけるようになるのか。僕は、自分の人生が競技をやっている間に変わったような気がしているので、なれるのではないかと思っているのですが、それは気のせいかもしれない。なにかヒントがないかと思っているのですが。

朝原:主体的ね…。でも、みんなだいたい主体的じゃないの?

為末:自分が現役のとき、ほかの選手は主体的に見えていましたか?

朝原:うーん、じゃない人もいたね…。

為末:それは、競技力の差になっていたと思いますか?

朝原:そうとも限らないかな。でも、外国の選手を見ていると、コーチにものすごく依存している選手がいますよ。主体性がなく、完全に言いなりになる。でも、それがダメになったときには、コーチをすぐに変えるという主体性はあるという特徴はありました。

為末:入ったあとは一色に染まるんだけど、選択においては主体的ということですね。「自分で自分に合うものを選んで、自分の行きたい方向に行くんだ」ということを主体性と捉えると、それがない人は、後天的に手に入れることができるものなのでしょうか? 僕は、それと競技力とはかなり相関していて、そして、引退後の人生にも相関関係があるという感覚があるんです。でも、それは生まれた瞬間に決まっていて、もともと主体的でない人は主体的になれないというのも1つの説として成り立つ気がする。ただ、僕は、(後天的に)なれるんじゃないかなと思っていて、なれるとしたら何がきっかけなんだろうと…。

朝原:難しいよね。勇気を出して自分で選択したとしても、やはり周りのサポートがないとできないので、一概に自分の選択だけでいけるというわけでもない。でも、その環境を選んでいることも自分の選択なので、なんともいえないけれど…。

為末:何が言いたかったかというと、「能動的に主体的になれば、自ずとすべては学習の機会になる」というのが僕の持論で、責任とかそういう話の前に、「主体的に自分の競技人生を進めていくんだ」ということに目覚めれば、自ずといろいろなことが見えてくると思っているんです。なので、このプログラムが、なんでリーダーシップという名前なのか、みんなわからないかもしれないけれど、まず、「リーダーシップ」の定義というのは、「他者ではなく、まず自らに対してリーダーシップを発揮できるか」というのが一番重要。というのも、自分の人生を自分でコントロールしている人は案外と少ないので、それをどうやっていくかというのが大きなテーマかなと。そのことを、みんなにわかってもらえるといいなと思って、1回目のこの場で話してみました。

◇◇◇

ときには、“暴露話”のようもエピソードも交えつつ、これから世界を舞台に戦っていかねばならないダイヤモンドアスリートたちには非常に示唆に富む話題を提供してくれた朝原プロジェクトリーダーと為末さん。最後は、それぞれにダイヤモンドアスリートたちに向けて、次のような言葉を寄せ、導入対談を締めくくりました。

<朝原プロジェクトリーダーから受講者へ>

「リーダーシップというのは、みんなをまとめ上げて引っ張っていくということもそうだし、能動的に自分で新しい道を進んでいくという開拓者みたいなのもそう。どちらもなかなか難しいことです。ここにいるみんなの場合は、それぞれに能力があって、すでに選ばれている状態。今後、陸上界とかスポーツ界を代表する人として、模範生として見られることはもうしょうがないと思うんだよね。ある意味、そういう運命なんだと思って行くしかないと思います。僕自身も、初めはそんなことは全然思わなかったけれど、だんだん強くなってきて、強くなればなるほどいろいろな人への影響力が出てきたし、自分なりにそれに対する自覚も出てきたという感じなので、まずは小さいことでもいいから、どんどんいろいろな経験をして、それを自信に変えていってほしいなと思います。それぞれの行く末がどういうのがいいかはわからないけれど、でも、陸上界のことを考えるのなら、みんなには、そういう先頭に立っていく人になってほしいなと思います」

<為末さんから受講者へ>

「僕は、人の成長は非連続だと思っていて、ある日の出来事を境に、別の次元の人生が始まると思っています。それらは、外からもたらされるものではなく、自分の内側で“変わるんだ”という思いを持っている人にしか起きなくて、それが“主体性”だと思っているんですね。皆さんが、このまま緩やかな競技人生を過ごしていくのか、ある日、バーンと跳ねて、全然違う次元に進んで、歴史に名前を残す人物になるのか、我々はその種までは提供できるけれど、所詮は脇役なので、その瞬間にみんなが思いきり変革して、違う次元に行けるかどうかは、残念ながら我々には関与できない話なんですね。僕は、そういうことがここで起きるといいなと思っています。僕と朝原さんは、自分たちの競技人生の間に、おそらく100人くらいの代表選手に会ってきましたが、今、世の中から認識されている我々の世代の陸上選手というのは、本当に2~3人くらい。そのくらいの確率の勝負を、今から皆さんはしていくわけです。そのなかで、自分は“歴史に名前を刻むんだ”ということを本当にやろうと思うと、どこかで非連続的に自分の今までやってきたことを全部忘れて、新しい自分になるんだという場面が起きる必要があるんじゃないかと思っています。今回のいろいろな話を聞いて、“そうした刺激が加わることで、今までの自分を全く忘れて、違う自分になれる可能性があるんだ”ということを、皆さんが、どこか頭の片隅に置いてくれるといいな、と思っています」

 
「2018-2019ダイヤモンドアスリート 第1回リーダーシッププログラムVol.3(振り返り)」に続く…
 
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